少し前に「ありのままの子どもを見守る学童」と称する団体を見学する機会がありました。
ネーミング通りに伸び伸びと笑顔で過ごしている子どもたちを想像しながら伺いました。
猛暑の中、学校から学童に帰ってきた子どもたちは、休憩もなく次々と学校の宿題をしていたので、少し心配になりながら見守っていました。
「親の負担を軽減したい」ということで、学童スタッフさんが子ども一人ひとりの学校の連絡帳をチェックしています。
その後も子どもたちに休憩時間はなく、スタッフさんは次にやることを子どもたちに提示しながら、役割分担をしていきます。
その時はフルーツポンチを作ろうという企画だったのですが、全員が作りたいという訳でもなく、「果物は苦手なのに…」と困惑している子どももいました。
私が一番息苦しく感じたことは、その小さな一軒家に20人以上もの子どもたちがギュウギュウに詰め込まれた状態であったことです。
特に都市部に於いて、子どもを預かってくれる施設はニーズが高いのですが、どこも場所の確保が非常に難しい。
若い学童の代表は、ビッシリ詰まった年間スケジュールを私に見せながら、色々と話をしてくれました。
見学に来た親御さんは必ず「ここでは子どもに何をしてくれるのですか?」と質問してくるそうです。
もはやニーズが子どもを預けるだけでなく『子どもに何かをさせること』までセットになっている。
一方、今の学校はとても余裕がないため色んなことを一斉に子どもたちに詰め込んでいる状況です。
毎日学校が出している宿題についても「その内容が、その量が、今のその子に本当に必要ですか?」という光景に胸を痛めてきました。
既に子どもたちは、朝から夕方まで、学校で精一杯頑張ってきたのに
学校が終わってからまた次のミッションが待ち構えている、という一日の流れをどれだけの人が見通しているのかな。
先ほどの学童だけでなく、他の習い事や塾、そして学校までもが「子どもに何かをさせること」に注力している場所ばかり。
子どもの時間を常に何かで埋めていなければ、この先子どもが困ることになりますよ、という風潮が世の中に漂っています。
本来は自分について
・何が好きで
・何が苦手で
・今までどう生きてきて
・今はどういう状態で
・今後どうなりたいのか
という風なことを、小学生にもなれば何となく感じていくものなのですが
今の子どもたちには、そんな時間はありません。
「とにかく何でも努力さえすれば、自分の成長に繫るのだ」と、的外れなエネルギーを使い続けると、限界のストッパーが外れたままの人生を過ごすことになる。
子どもであれ、大人であれ、人のエネルギーには上限があるのだということを多くの人が忘れています。
アレも良い、コレも必要だと、大人の事情や理想で常に何かをさせられている状況では、とても自分と向き合うことはできません。
自分を見失っている時間が長ければ長いほどこじれていき、その後の修復が難しくなっていきます。
自分に何が良いのか必要なのかは、何もない時間の中で子ども自身がふとした瞬間に見つけるもの。
余白の時間が子どもを育てます。
そろそろ子どもたちに「何もない時間」をお返しましょう。
「子どものために」。
私はこの言葉を使う時に、細心の注意を払いたいのです。