ありのまま

結局の話

先日の出来事は
「もう、いい加減に子どもへの『よかれ』はやめなさい」
という忠告だったのだろうなと受け止めています。

ボーっとしている娘を見ては「気晴らしに外に出た方がいいよ」と声をかけ

何も手につかず怪訝な態度をとっている様子に「少しは家のこと手伝ってほしいんだけど」と愚痴をこぼし

機嫌が悪くなると、甘やかせてしまったかもしれないという気持ちが膨らみ「いい加減にしなさい。その態度は何?」と伝え

自分は運動不足だ、と落ち込む姿に「じっとしているから余計に体調が悪くなるのは当たり前でしょう。散歩くらいは行かないと」とアドバイスをする。

そして、あれこれ頭がいっぱいになっている様子を見ては「暇な時間が余計なことを考えさせるのだろうから、何かしら社会と繋がるように背中を押してやらなければ」という考えが、いつも私の頭の中にありました。



結局、私が「よかれ」とやってきたことは、娘に必要ではありませんでした。




「あなたは、普通の生活ができないほど疲れています。人並みの生活ができないほど、頑張ってきました。仕事が出来ないのは当たり前で、反対に仕事をしてはいけません。だから今は絶対安静です」

医師から、ここまではっきり宣言されたことで
今までの状態が、少しずつ落ち着きはじめました。

治療の段階を踏むために、今はそんなに強い薬は飲んではいません。

これはマジョリティの教育が、圧力になっていたと言わざるを得ないのです。
もちろん家庭の影響も大きいでしょうから、無意識の私の「よかれ」にも責任を感じています。



どんな親でも学校の先生や団体関係者でも
「目の前の子どものすべてを知っている」
といった思い込みは、とても危険です。

どんなに近しい間柄でも
目の前の子どものことは今もわかっていないし、
この先も、すべてがわかる日が来ることはない。


不登校や引きこもりの当事者が「やらない」のではなく「できない」ということは、今の時代、多くの人が理解しています。

「このような状態になるまで頑張り過ぎてきたから、本当に何もやらなくていいし、反対にやってはいけない。みんなもそれを理解しているのだ」と本人が心から感じた時に、はじめて回復へのスタートラインに立つことができます。

そんなこと、始めからわかっているでしょうと思われるかもしれませんが
当事者とその家族には、修行というか苦行に近い、実に難しいことなのです。

今回、もし私が医師と同じメッセージを娘に伝えることができていたとしても
本人に受け入れる気持ちがないと、心は動きません。
「どの立場で、どの言葉を、どのタイミングで伝えるか」は本当に難しい。



写真は、最近おせっかいにも散歩に連れ出した時、
「きれいな入道雲だよ」と教えてくれたので撮った一枚。

こうして振り返ってみると
娘の優しさが
ステレオグラムのように
ひとつひとつ浮かび上がってきて

心がキュッとなるのです。